6.23
ホテルをチェックアウトした後に釜山駅からジャンジョン駅に向かう。10時にB-Houseに戻る。昼から皆で、海にシュノーケリングに行く。コヌー、ナカちゃん、チョンミン、スンミン、スルギ、芥川君、オングで車に乗り込む。ナンポドンから橋を渡ってヨンソンドンの先端にある海岸に行く。海岸沿いにはかまぼこ型のド派手な配色をした海鮮料理のテントが並んでいて、呼び込みのおばちゃんたちの威勢のよいかけ声が飛んでくる。
コヌーたちはレンタルでシュノーケリングの装備を借りる。僕は天気が曇りだったのと、ちょっと疲れが残っていたので海岸でのんびりすることに。スンミンがウニを大量に採ってくる。一つ割ってみたがほとんど食べれそうにないので、残りを海に戻す。スンミン、すこし悲しげな表情。結局大きな収穫はなく、最終的に持って来た辛ラーメンを鍋に投入して皆で食べる。潮風に吹かれて食べるラーメンは美味しい。コヌーが小さな貝を鍋に入れて茹で、みんなに振る舞ってくれる。「コヌーのアウトドアでのサバイバル能力は高い。どこででも生きて行けるはず、キムチさえあればね」とナカちゃんと話す。
帰りがけにコヌーが一年間だけ在籍していたという「釜山海洋大学」に立ち寄る。小さな島がまるごと学校になっている不思議な造り。波が高い日は学校に通じる唯一の道が閉鎖され休講になるという。ナカちゃんが、なんでこの学校に行こうと思ったの?コヌーに聞いたら「学校見学に行った時に学生が校庭で釣りをしたり、貝を取ったりしてその場で酒盛りしていて、楽しそうに見えたから」と答えたらしい。でもクラブは(韓国の)茶道部だったそうだ。さすがコヌー。
6.22
昼前にホテルを出てパン屋で軽い朝食。リュウ君とタクシーでナンポドンに向かう。ナンポドンの入り口、釜山タワーのある龍頭山公園をリュウ君が指差してこう言った。
「昔、日帝時代はここの丘のてっぺんに神社があったんですね。それも海軍の軍神を奉る神社で、日本の海軍の将校は必ずここにお参りに来ていたんですよ。でも、日本が8月15日にポツダム宣言で降伏した直後に、朝鮮の人たちが真っ先に神社を燃やしたという話なんです」
この話を聞いて、僕は当時の人々がこの神社を燃やしたいという気持ちがなんとなくわかるような気がした。神社を燃やしたその時、さぞ爽快な心地だったことだろう。ずっと日本の植民地にされてきたという事実を考えれば、燃やしたいというのは人間の自由への感情からして当然だろう。結局、それが宗教の形をまとおうが何だろうが、支配のシンボルはシンボルだ。何であれそんなものはいつかは引き倒されるべきなのだ。
そのまま歩き続けて、徐々にごみごみとした小さな露店の並ぶ路地に入っていく。タオル、革ジャン、洋服、食器類から、キムチ、魚介類、韓国の餅菓子。ありとあらゆるものがこの路地に集まり、並び、売られて行く。
「国際市場の歴史も面白いんですよ。元々は○○(名前忘れた..)という名前だったんですけれど、それは日本が降伏した直後、朝鮮にいた日本人たちが引き揚げ船に乗る為に釜山まで下ってきたんですが、持って来た財産まで運ぶことができないので、ここで置いて行ったり、売ったりしたんですね。それでそれを買い取った韓国人たちがここで商売を始めたのが始まりなんです。」
「その時、「持ってって」という日本語が変化して、この市場の名前になったんです。その後は朝鮮戦争、アメリカ軍の基地の関係で、米軍払い下げの布で洋服を作ったり、缶詰とか放出品を売ったりして市場が発展していったんですよ。だから、元々は闇市ですね。ここで売っているものは今でも舶来品が多いんですよ。でも今は、街に大きなマートができたりして、だんだん商店街や小売店は商売が成り立たなくなってきていますからね、大変ですよ。」
銀行の建物の横におばあちゃんが一人腰かけている。路上に黒いビニールシートを敷いて、その上にニラを並べて売っているのだ。こんな場所で一人でニラだけを売っていて、それで暮らしが成り立っていけるのだろうか、と気になってしまう。釜山の電車の中で、雨合羽や演歌のカセットを売っているおじさんたち、路上で野菜を売っているアジュマたちを見るたびに、同じ気持ちになる。
国際市場を抜けて、宝水洞の小さな古本屋街にはいる。ここも終戦直後引き上げの日本人たちが置いて行った本を取引することでできた本屋街だという。一番古く、品揃えがしっかりしているという本屋の中の喫茶店に入って一休みをする。トイレから帰ってくると偶然、アジア美術館の黒田さんが別のテーブルに座っているので驚いた。聞いてみると、民主化記念館内で今行っている民衆美術展を見に来たそうだ。洪成潭氏の「靖国シリーズ」が今展示されているので、見た方がよいと言われる。
リュウ君とは地下鉄で別れ、再度ポンネのLIGホールに行く。玄関にたどり着くとソンヒョがちょうど建物から出てきた所だった。半年ぶりの再会。皆で打ち上げの焼き肉屋に行くという。ソンヒョの友人で、ヘウンデで高級刺身店を経営しているスユン氏とも再会する。彼から、今年の釜山ビエンナーレのディレクター選出問題、その抗議としての釜山ビエンナーレボイコット運動についての顛末を聞く。焼き肉をごちそうになり、ソンヒョや出版社を経営しているジャンジョンと話し込む。解散後は、福岡チームの人たちと一緒にホテルに戻る。
6.21
昼の1時までホテル内でパソコン作業。北京以来ずぅと腹の調子が悪いままだ。北京で食べた何が悪かったのかなんてわからないが、あえて言えば油だったのだろうか。1時に福岡からリュウ君が釜山駅に着くという連絡があり、釜山駅に向かう。リュウ君は、釜山出身で今は福岡大学の博士課程で経済と文化の関係を研究しているが、マジシャンだったり、料理人だったりととても多才。とても頭が良いので、僕はリュウ君に日本という国がどうおかしくなっていっているのかしっかり観察してほしいといつもお願いしている。釜山駅の階段下で、LINEのキャラクターTシャツを着たリュウ君と会う。駅の向かい側の小さな中華街でジャージャー麺を食べて、ロシア人街を歩きながらこの通りについてリュウ君が説明してくれる。この通りにはロシア語の看板が並んでいて、携帯ショップや衣料品店を営んでいたりする韓国唯一のロシア人商店街なのだ。
「昔は、ここは元々日本人街だったんですよ。日帝時代から本格的に開発が始まったんですが、いわば釜山の元々の中心部です。だから日本人たちが建てた銀行や警察署の建物が多く残っているエリアなんですよ。戦後それから中国人たちがやってきて住み始めて、その後に米軍基地がある関係でアメリカ人も多かったんで、飲み屋や赤線地帯になっていて、その後にウラジオストクとの貿易が始まってからロシア人が住み始めて今はロシア街になっているんですよ。でも、基本的には夜の飲み屋だから僕が子供の頃までは韓国人はこのエリアに入れなかったんですよ。」とリュウ君の説明を聞きながら歩いてゆく。
夕方5時に、LIGアートホールで「韓国-日本 共同制作プログラム Plan Co #1 <소리, 소문도 없이-ソリソムンドプシ>」の公演を見る。演出は東京の演出家、捩子(ねじ)ぴじん氏。地元の高校生たちと福岡、釜山のダンサーたちが恊働して作られた作品。韓国語が判らないので全部把握はできなかったけれど、手話で自己紹介をするシーンで「海に沈みました」という台詞があり、「セオウル号」のことを思い起こす。高校生は公演中も照れたり、きょろきょろしていたりして終止自分たちのペースで、一心不乱に踊っている大人のダンサーたちのギャップが面白い。
公演後に近くの海産物レストランで打ち上げに参加させてもらう。ジョンミンが「韓国や日本、アジアのそれぞれの文化活動や社会運動を網羅できるWebマガジンを作りたい」という話をする。その後、タクシーでジャンジョンに戻り、居酒屋でコヌーたちと合流。昨年バンコクで会った、東京芸大の博士課程のスンヒョ君と再会する。今年、日本と韓国で行われる「フェスティバル•ボム」のディレクターにも就任して、先日パリから帰ってきたところだという。順風満帆といった雰囲気で自信もみなぎっている。振り返れば、自分自身に自信が持てた事一度もない気がする。タクシーで再度ホテルに向かい就寝。
6/20
10時にB-Houseに向かうと芥川君の彼女でタイから来たオングと会う。今朝到着したばかりで、お土産のドライマンゴーを配っている。韓国は2回目という話。一緒に近所の食堂でご飯を食べに行く。
午後2時半に沙上駅を降り、Sasan Indi Stationに。建物はコンテナを積み上げたアートセンターで新しい。福岡市文化芸術振興財団、釜山文化財団の人たちや、コーディネイトしてくれた横山さん、猪股さん、鈴木さんと会う。
突然後ろから「KEN,久しぶり!覚えている?」と英語で声をかけれたのでびっくりして振り向くと、どこかで見覚えのある丸眼鏡でおかっぱの髪型の女性が。でもどこだったのかを思い出せずにいると「ほら、2年前横浜でソンヒョと一緒に夕方ご飯を食べたでしょ」と言われはっと思い出す。2年前の横浜でのTPAMという国際演劇フェスにソンヒョが行くので会いに行ったときに彼女、YeonWooと会っていたのだった。今は、このプログラムのディレクターだという。Yeon Wooは「世界はせまいわね〜」と笑いながら言う。僕もそう思う。
先日、釜山で行われている「韓国-日本 共同制作プログラム Plan Co」内のフォーラムに招待してもらい、韓国の大学の先生、新聞記者、作家の方々とトークをする機会を頂いた(僕以外全員が韓国語を話せる方々だったのですが、通訳の方の流暢な日本語に助けてもらいました)。このフォーラムでは、「噂」というテーマを基に話して行くものだった。
福岡と釜山の両都市の人々にお互いの国の噂について尋ねて回った映像作品を見ながら、お互いの国の人々の「噂」がどう社会通念のように流通しているのか、そして「噂」のポジティブな面、ネガティヴな面について各パネリストの方からコメントをもらうという形式でした。映像で面白かったのが韓国の人が日本に関して「毎年、土地が沈降していていつかは海に沈んでしまう」という噂をほとんどみんな知っているということ。僕は初めて耳にした。あと、独島(竹島)の領土問題。これは小学生くらいの子でもそう発言するシーンが多かった。日本から韓国に対する噂は、どちらかというとメディアを通じたイメージの反復(K-pop、美人が多い、化粧品)か、食事について。ちょっとぼんやりしている感じ。
韓国では過去(日本植民地時代)の歴史教育への関心が高いが、日本は過去の歴史教育についての関心が高くないように思うがどうか、と他のパネリストから聞かれる。あと、韓国の中国文学研究者の方が「噂には誰が語ったのかという語りの主体なしに流通していく」という発言を聞いて関東大震災時の朝鮮人虐殺での官憲流言を思い出す(「9月、東京の路上で」を読んでおけばよかった、と後悔先に立たず)。
そう、「噂」は、聞きたいものが流通するが、聞きたくなないものは流通しないか、隠される。例えば、文化や芸術の領域では良い意味での聞きたい噂、「ベルリンが面白い」「北京のパンクスがいま熱い」等々が広まりやすい気もする。が、その一方で、やはり「噂」とはネガティヴなものではないか、と思った。
噂は、基本的にその話しの対象となる他者やモノが不在(もしくは語られる側が語り、拒否、修正する権利をはぎ取られた)のままに、語る主体が語られる対象について一方的に語り続け、対象とされた側は、そのように語られた存在として規定され続ける状況の流通をも意味している。また、その社会で噂が盛んになるのは、その社会の情報流通の透明性と相関関係にあるという指摘もなるほどと思った。他者に対する悪意ある噂が、ヘイトスピーチに一変する危険性を常に孕んでいるのは、昨今の日本の状況を見れば明かだ。
映像の中でインタビューを受けていた日本のおじいさんは、福岡が戦後すぐに引き上げ港だった時代に日本と韓国両国に帰っていった人々や、大浜には戦後すぐ朝鮮の人々の自治区があった(知らなかった!!)らしく、その人たちについての聞き取りをしていて、噂というよりもオーラルヒストリーとしてとても面白かったし、「日本についての噂は何ですか」と聞かれて、おばあさんが植民地時代に強制的に学ばされた日本の歌をニコニコと歌っていたシーンも印象的だった。韓国のパネリストの方の「これらは、大文字の歴史(権力者の歴史)から排除された民衆史であり、韓国のおばあさんの過去の苦難と今楽しそうに日本語の歌を歌う姿をどう考えていくのか」という言葉が印象に残っている。
僕は相変わらず設定されたテーマの周りを軌道衛星のように勝手にしゃべっていただけなのですが、何人かの韓国の方から「面白い話が聞けてよかった」と言ってもらい少しほっとする。今度は、福岡で釜山の人たちとトークをすることができればいいな、と思う。こうやって、お互いの誤解や妄想をも共有していくことができれば、「噂」が単なる妄想や、誤解、もしくは、ちょっぴり笑える事実だったりすることがお互い簡単に理解できて「な〜んだ、あれは単なる噂だったのか」と笑い合える。
僕は、中国や韓国の友人たちとお互いの国のステレオタイプなイメージ(例、日本人=真面目だが陰険、中国人=カネ大好き、韓国人=怒りやすい)について話して、皆で笑うのが好きだ。そのとき、皆それは単純化されたイメージでしかなく、世界に投げ出された人間は学習や慣習をつうじて、常識や文化を纏いつつも常に自らの主観性をもって世界と相対峙し、逸脱してゆく固有の生の「リアル」を生きているのだという実感がお互いの内にあることを知っている。ひそひそと話されていた「噂」を開けっぴろげにして、共通のジョークとして笑える時、国家という時空間よりももっと広い、世界の「現在性」を共に生きているのだと知ることができると思う。
2次会にも誘ってくれたが、荷物をB-Houseに置いて来たままにしていたり、芥川君とバンコクから来たキュレーターのプレゼンがあるので、せっかくだけれど一旦B-Houseに戻ることにする。しかし到着した時にはすでに展示は終わっていて、皆で打ち上げ中だった。荷物を引き取って、終電で釜山駅に向かう。夜は釜山文化財団が予約してくれた東横インに宿泊。久しぶりにベッドで寝る。
6.19
朝、サンドラムの人たちがソウルに向かうというので、ゲストルームで見送る。その後、B-Houseに滞在。午後2時に釜山の友達、ヒヨちゃんのカフェに向かう。場所が判りにくいらしく住所を送ってもらう。トンネ駅を降りて小さなマイクロバスに乗る。山の方に登っていくが韓国語の音声案内だけなので、必死に降りるバス停の名前を口にしながらひとつ手前で降りる。坂をのぼっていくと白い日傘をさして女の子が立っている。ヒヨちゃんと一年ぶりの再会。新しいシェアハウス/カフェに案内してもらう。
ヒヨちゃんは素人の乱の松本さんの本「貧乏人の反乱」を読んで、自分も場所を作りたいといって別の場所で友達と一緒に家のようなカフェのような不思議な場所「思考喫茶散策劇場(日本語訳)」をオープンしていた。1年前に一旦そのお店をたたんで、今の場所に移ったとのこと。
「ここは、丘の上の町だからバスがないと皆登れなくて。だからおじいちゃんとおばあちゃんしかいないし、静かなんだ」と、のんびりした雰囲気の日本語で説明してくれる。外見は普通の一軒家で、ちょこんと看板が出ている。家の中には以前の場所のように本棚や小さな小物が置いてある棚、そして2匹のネコ。キッチンで手作りのゆずジュースをごちそうになる。
「で、この前の場所が再開発で契約が切れた後にこの家を見つけて。前の場所に似ている物件を探してね。今は4人でシェアハウスをしていて、時々みんなで手芸してコーヒーカップホルダーを作ったり、手作り柚子茶を週末のフレーマーケットに出店したりしてるよ。今週は釜山、で次の日は光州とか。ちょこちょこ移動しながら物を売ってお金を作ろうかな、という感じ。あ、そうそう写真も売ったりしてるんだよ」
そういいつつ一冊の大きなスケッチブックを取り出してきて、テーブルの上に広げる。
『これは「移動写真ギャラリー」。裏に貼付けてある封筒に1000won(100円)を入れると中の写真を見る事ができるようにしているの。結構見てくれる人いるよ。』
なんだか、駄菓子屋さん感覚とでも言おうか、肩肘張らずに自分の身の丈のままで物を作ったり、表現したりしている感じがいい。
「あ、あとね。向こう側の部屋では今展覧会をしているの。ちょっと準備するから待ってて。」といってもう一つの部屋には入っていく。
「どうぞ〜」と言われ別の部屋に入ると、縦長の木の扉の奥に急で短い階段、そしてそのさらに奥には中2階くらいの高さで人が一人横になれるくらいの物置のようなスペースがある。
「ここで今私の昔のいろいろな旅の記録を展示しているから。お客さんは一回2時間までこの部屋の中でのんびりしてもらうの。で、自分が気に入ったものを写真に取ってもらっているの。」
入場料もちゃんとドアのところに書かれていて、面白いので支払ってみる。一回5000won(500円)。階段を登ると小さな青い壁紙の部屋に、これまでの旅の記録、スケッチ、写真、映像、バックパックなどがあちらこちらに飾られている。で、それらをぼんやりと眺めていたが、小さな押し入れのようなこの部屋が居心地が良くてうとうと寝てしまう。1時間くらい寝てから外に出る。
「私、今お金もないけれど、ストレスもないんだよね〜。自分の暮らしの中から楽しいことができてる感じだから」とヒヨちゃんがぽつりと一言。自分の暮らしや身の回りの中からできる範囲で 、自分の家の中で展覧会をしている。
この無理して背の伸びせず、自分の出来る範囲で、外側にあるものを自分の内側にゆっくりと取込んで行く感覚はなんだか新しい。ともすれば何にせよいち早く新しいものを受容しようとする韓国社会の速度(スピードへの強迫観念)とは異なる時間の流れを作っているようにも思う。
昔の古墳だったという公園からは、トンネ地区の街並が一望できる。山の斜面には日本では考えられないような高い高層アパートが並んでいる。途中でヒヨちゃんと別れて、トンネの市場をぐるりと散歩し、駅に戻っている途中で偶然、芥川君とミンジュンと会う。ここまで買い物に来たらしい。芥川君と近くの焼き肉店で夕食を食べて帰る。
夜はB-Houseで2年前のコヌー家爆発事件の時の芥川君の記録映像や、ミリャンの高圧送電線鉄塔反対座り込みが警察によって強制撤去された時の映像を皆で見る。コヌーたちも座り込みの現場で座り込みをしていたが、警察に囲まれて排除されている様子が映っている。韓国の政府も警察も座り込んでいる村のおばあちゃんたちを強引に引きはがして行く。座り込んでいたコヌーも警察に両手両足を持って行かれて「シバル!シバル!(クソヤロウ!)」と叫んでいる。ひどい。
6.18
10時過ぎに起床。B-Houseの近所に借りたゲストルームに泊めさせてもらう。といってもまだ何もないがらんとした部屋。水シャワーを浴びてB-Houseに行く。昨晩は気がつかなかったけれども、B-Houseはすべてが真っ白だ。B-Houseは坂から一つ奥まったところにある韓国の典型的なコンクリート作りの平屋だが、建物全体を真っ白に塗っているので、屋根の形や細部の目地が無くなって不思議な浮遊感と存在感がある。
内側が真っ白のホワイトキューブはどこにでもあるが、白く塗られた民家それ自体が彫刻作品のように見えてくる。中はマット敷きのリビングと、事務スペース、キッチンに男女別のドミトリー式ベッドルーム。レジデンス滞在のアーティスト以外の人たちでも一泊15,000ウォンで宿泊できるという。
芥川君がテラスで作業している。確かに居心地がよい。元住居なのに、今はオフィス兼集会所兼ゲストハウスとして使っているが、内装は徹底的に白に塗り替えて、そこに普段使いの机や椅子を持ち込んでいる。一旦ホワイトキューブの皮膜に包まれてはいるが、それでも住宅の形態は残っている。この住居とホワイトキューブの境界線上の感覚が不思議と居心地が良い。
なかちゃんが最近オープンさせたカフェ、Nayutaカフェで昼ご飯を食べようということに。この日はなかちゃんではなく、スージーというもう一人の女の子が店番をしているらしい。小さな市場を入って行くと、その角地にかわいらしいオープンカフェがある。 コヌーは「ここにある家具や道具はほとんどタダもらったり、道で見つけたりしたものじゃけん(釜山弁の広島弁訳)」と自慢げに話している。
この他にもB-House若手スタッフのミンジュンのブックカフェや、アートギャラリーを作っている最中で、これまでAGITという一つの場所に集約していた諸スペース(ギャラリー、レジデンス、ライブハウス等々)を町のコミュニティの中に分散させて、コミュニティの中により積極的に入っていこうというコヌーは考えているみたいだ。
「でもね、コヌーは韓国の文化財団からの援助もレジデンスプログラム以外は受けていないから、ほぼ自腹で運営しているんだよ。特に今年は4月のフェリー『セオウル号』の事故があって、一番イベント屋さんにとって仕事の入る時期に全部キャンセルになってしまって。で、最近近くのエリアに別のアート団体がこことまったく同じようなプロジェクトを市から多額の援助をもらってするみたいで。釜山は最近の統一選挙でも与党(セヌリ党)だし、反原発やミリャンのデモを企画したりしているAGIT界隈はやっぱり釜山のアートシーンからも浮いているように見られているみたい。」
と、後でため息まじりにナカちゃんが僕に話してくれた。AGITは確かに他のアート団体に比べても、原発問題、労働問題で発言したりデモを企画したりすることが多い。だからこそ、アート団体として敬遠するところもあるのだろう。だけれど、そういう所が僕がコヌーや元AGITのソンヒョの活動でもっとも好きな部分なのだと思う。狂った社会にきちんとものを言う。そして大きな力におもねったりせずに、自力でできるところまでやってみる。文化と社会、表現と行動がちゃんとどこかで繋がっているという感覚。
夕方は釜山大学駅横の温泉側の河川敷でAGITの音楽イベント。サンドラム、ナカチャン、チョンミンたちが出演。昨年東南アジアを一緒に旅したAshとも再会する。白髪が増えていたので、頭を指差すと笑いながら「ストレスあるよ」と片言の日本語。SUNDRUM、ダンサーのなおさんが踊っている最中の笑顔がとてもいい。笑顔で踊ると見ているこちらも笑顔になるんだな、と。ナカちゃんがイベントのトリで演奏する。静かな深い声が橋の下に響く。7時くらいに片付け撤収し、近くの料理屋へ。2次会はマッコリ屋に向かう。生マッコリが美味しくて、みんなぐでんぐでんに酔っぱらって解散。
6.17
北京から上海を経由して夕方4時半に釜山に到着。地下鉄を乗り継ぎいつものようにジャンジョン駅で降り、坂を登ってAGITに向かう。これまたおなじみのAGITの光景(一階に人がたくさんいて、誰か飲んだり、音楽を奏でたりしている)を想像しながら建物に入るがどうも様子が変だ。
人がいないだけではなくて、もう誰も使っていないかのようなのだ。2階にのぼりスタジオのドアを開けると、親猫と子猫が占拠していて僕が足を踏み入れるとうなり声を上げる。ゲストルームももぬけの殻だ。仕方なく荷物だけ置いて、とりあえず街に戻ろうととぼとぼと坂を下る。なんだか寂しい。
釜山での僕のホームでもあり、たくさんのアジアの人たちと出会った記憶の詰まったAGITは、今は抜け殻のようなコンクリートの塊にしか見えない。もしかしてアジアの繋がりなどといい気になっていたのは自分だけで、本当にそれぞれの場所の運営は厳しく、そんな幻想よりももっと切実に生活をやりくりしている方向に向かっているのが現実なのでは、とうなだれる。
いくら何度も来てよく知っているつもりの場所でも、そこで出会うべき人々と出会わなければすべてが急によそよそしい、見知らぬ空間に変貌してしまう。人は人を介して、人との関係性の中で、有機的かつ親密な空間を把握しているのだ、と改めてそう感じる。
とぼとぼと坂を下りていると、下から赤いバイクが勢い良く登ってくるのに気がついた。よく見るとAGITのディレクター、コヌーだ。おなじみのノーヘル、タンクトップ、短パン、サンダル履きで凄い勢いで坂を掛け上がってくる。むこうも僕に気付き手を降る。片手運転。
「おー、ケンよく来たな!いまAGITに肉を取りに行くところじゃけえ、とりあえず後ろに乗って一緒に来いよ(*コヌーの釜山弁を広島弁風に訳してます)」
コヌーの運転するバイクの後ろにまたがって、降りて来た道を再度登る。友人と一緒に登る坂道は、楽しい。さびいしい夕暮れの路地が、一気に活気づいて見える。もちろん僕自身の感じ方が変化しただけなのだが。AGITに戻り、冷蔵庫から肉を取り出しているコヌーにAGITはもう使っていないのかどうか尋ねた。
「そう、結局大家がこの場所を売りたいということで契約が切れてしまってのう。で再開発工事が始まる前までは荷物を少し置かせてもらっているというわけじゃけん。でも、今は坂の下の方にいくつか場所を借りて、当たらしいプロジェクトを始めようとしているんよ。後で連れて行くけぇの。」
荷物も全部バイクに詰め込んでまた猛スピードで下る。途中で新しい地下スペースを見せてもらう。弁当屋の隣の階段を降りると広い地下ホールが広がっている。「心あるお坊さんが寄付してくれてここをタダで使えるようにしてもらったんよ。ダンスや音楽のスペースに今から作り替えるんよ、楽しみにしときんさい」とコヌーは言う。
そしてバイクが到着したのはB-Houseという名前の新しいスペース。元住宅を改装して、オフィス兼レジデンス施設になっている。坂の通りから一つ入った小さな門をくぐると、目の前でバーベキューの準備をしている人たちがいた。挨拶をすると先日釜山に到着した東京のミュージシャン、SUNDRUMのメンバーの人たち。全国各地を渡り歩いて演奏しているとのこと。メンバーのコウタくんは、伊豆諸島の最南端、青ヶ島の出身。島の太鼓を叩いている。
ここにレジデンスで宿泊している友人の芥川くんとも再会。不思議な丸眼鏡をかけている。釜山のアジトを紹介したのが2年前。今は東南アジアのいろんなところを点々としていて、僕なんかよりも海外移動生活を実現させている。東京からまた別グループできた編集者の人たちも後でやってくる。今年の春からワーキングホリデーで釜山に滞在しているナカちゃんにも再会。韓国語もずいぶんと上手になっている。
期せずして日本人ばかりの釜山第一日目の夜の宴。