死者は泥人形となり、消された歴史を語る「映画:消えた絵-クメールルージュの真実」

福岡の映画館、KBCシネマで先週まで上映していたカンボジアのクメールルージュの虐殺をテーマにしたドキュメンタリー「消えた絵-クメールルージュの真実-」を観た。監督のリティ•パニュは、クメールルージュ政権下の強制移住/労働が家族を失い、タイに逃亡しフランスに移住して映画監督となった。

純粋な原始共産主義革命を夢想したポルポトにとって、都市と都市生活は資本主義的退廃の極北(絶対悪)だった。だからこそ、その痕跡を一切残さず、すべて をゼロにしようとしたのだろう。大勢の元都市生活者(新人民)たちが水田の泥のなかで飢えと過酷な労働、そして処刑によって死んでいくのも革命の必然的な プロセスだったと考えていたのかもしれない。

クメールルージュの「資本主義が廃絶され、誰もが平等で飢える事のない世界」というこの一見正しいと思われる<善>の言葉を暴力によって実現しよう とした時、言葉の内実が抜き取られ、イデオロギーとして形骸化し、思想の純化(善悪二元論で語る世界像)を引き起こし、現実世界を極度に単純化し、その純 化にそぐわない存在を抹殺していくという、想像に絶するおぞましい出来事が立て続けに現実化していった。

クメールルージュのプロパガンダ映像にある、止まない拍手は完全なる虚構を現実へとむりやりでっち上げたときに不可避の、そして唯一可能な身振りだ。革命 の成就という完璧なエンディングが実現したと明言した以上、このでっち上げられた革命的現実にはあらゆる矛盾を孕むものが存在してはならない。知識人も西 洋音楽も、都市のざわめきも、この現実に対するあらゆる類いの議論(もちろん民主カンプチアそのものについても)も革命後の世界には存在してはならない。 <矛盾は存在してはならない>という言表だけが、この虚構の革命を支える唯一の原理となる。映像に言葉はなく、拍手とスローガンで埋め尽くされる。

もちろん、その狂気に粛々と従った無数のカンボジアのアイヒマン(凡庸な悪、付け加えるとしたら自己保身のための狡猾さも)がいなければ、この革命の名の下に行われる残額さも実現し得ないのだが。

映画に登場する泥人形は死者が埋められた水田から採られたものだ。暗闇の中で殺されたものたちは、泥人形となって映像の光によって再び命を授かり、ポルポ ト以前のきらびやかな過去、そして強制収容所での労働と空腹と死の日々を演じる。無言のままで。死者たちは歴史を再演する。監督は失われたポルポト時代の 人々の映像を探し当てようとしたが、そこで見つかったものはすべてプロパガンダの映像でしかなかった。真の姿は記録されなかった。真の意味では過去の出来 事は再現できない。しかし、監督の記憶の中にある過去はあるイメージとして沈潜している。泥人形たちが監督の過去を再び演じることで、歴史の断片が、その 断片の光彩の中において浮かび上がる。一つの物語として。