今回、この祭りに東京から遊びに来てそのままスタッフになってしまったマリオさんとがふとこんな風に話しをした。「僕ねぇ、準備から数えて2週間くらい滞 在しているんだけれど、この祭り、誰もリーダーがいないのにすごくうまく回っているんだよね。日本だとリーダーいないと無理とか言うけれど、こっちはそん なのいあんくても、誰がいばるでもなく、みんながそれぞれにきちんと動いてるんだよ。」
リー ダーがいなくてもその集団がきちんと回っていく。あ、これアナキズム的社会集団の特徴じゃないか。平等な関係と相互扶助がアナキズムの基本原理だとする と、このフェスはそれに近い。その特徴の一つに、ボランティアとオーガナイザーの水平的な関係性がある。実際のボランティアは大学生が多かったのだけれ ど、オーガナイザーの能勢興の彼ら/彼女らは決して威張るでも、上から目線で指図するでもなく、ボランティアと同じ仕事を一緒に、時には率先してやってい る。その姿を見てボランテイアの面々はそれぞれの持ち場での自分達の動きの流れを作っていっていく。
日本におけるフェスや展覧会等におけるボランティアを巡る環境では、上で決まったことを下にやらせるという上意下達のヒエラルキーが今だにあったり、それ ぞ れの担当での縄張り争いがあったりという光景を目の当たりにすることがある。少なくとも台湾のこの祭りでは(他のイベントは知らないので)最初から各人の 自発性に任せる部分が大きく、それぞれが祭りの中でしなければと思う仕事を引き受けているので、誰が上で誰が下かとか、誰に発言権があるの等々の Bossyな発想そのものが無い。断言していいのかと言われると、断言していい。本人たちがそのようなボス的指向性に全く興味を示していないのだから。む しろ、有機的であり柔軟、可変的なネットワーク、コレクティブを構成する一員として祭りに参加していると言ったほうが近いかもしれない。
もちろん、部外者にはわからない、見えない問題点はあるとは思うけれど、少なくとも一つの企画を集団的に作りあげる際にありがちな、役職や部門にやたらこ だわりすぎたり、役職ゲームで内部ヒエラルキーを作り無用な対立関係を作ってしまうということを避けているかのようだ。だから、誰でも平等に運営に参加 し、自発的に関わり意見を出し合う自由の余地があるだろう。
Yuiはボランティアの人たち に「ボランティアだから自分のやれる範囲内で関わってくれればいいよ。でも私たちは外から来た人たちを世話する役割だということを忘れないでね。」と声を かける。各人に活動の理念だけをきちんと伝達してゆく、そしてその後はそれぞれの各人の意識、自発性に任せる。人手足りないところがあれば臨機応変に他の 人たちにも声をかけたり、応援を要請したりする。
夜の食事の配膳係の人数が足りない時、カメラ片手にうろうろしている僕に声がかかり急遽その日の配膳係になった。その場の状況を判断しつつ誰でもが平等な 立場での参加の可能性を開いておくこと。それをあたかも自然に、気にする風でもなくやり遂げているところ に台湾の人たちの凄さがある。
さらにYuiやアクンたち は、他者のことを思いやるという技術をごく自然に身につけているので、祭りだけでなく日常のなかでも贈与的なふるまいを普通に行なっている。だから台湾に 行くといつも、自分は本当に学ぶべきことを学ばず、身につけるべきことを身につけてこなかったのではないだろうか、と思わされるのだ。