今年の秋に台南に行った時、アークンの車が、白のバンから赤茶色のワンボックスになっていたのに気がついた。以前の白いバンは、走っている最中にバラバラ に分解してしまうのではないかというような代物だったが、とうとう動かなくなってしまったので、知人からワンボックスを譲ってもらったらしい。アークンの昔のバンはいろんな意味で鮮烈な印象を残す車だった。白いペンキがはげかかり、いたるとことが凹んでいる外側には、水色やピンクの色に塗られた漂流物がぺ たぺたと貼られ、バンパーとヘッドライトに隙間には何故かペットボトルが刺さっていていた。床はさびだらけで、下の路面が見えるくらいの穴があいていた し、車内は足の踏み場もないほど、いろんな物(衣服、工具、拾って来た流木、網、酒の瓶等)が散乱し蓄積されていて、バックミラーにはトビウオの干物がつり下がっている。天井には黄色のランプが備え付けられ、他の車に割り込みされたり追い越しされそうになった時には、アークン怒りの罵声とともに点滅する仕 掛けになっていた。ハンドルには赤ん坊の人形が括り付けられていて、ハンドルを切るた びにすすにまみれた赤ちゃんの瞳がウインクするというホーンデットハウス並みの演出が施されていた。もはや、一見すると移動するゴミ屋敷といった風情をかもしつつ、大音量の台湾演歌を流しながらアークンの車は飄々と僕らを運んでいったものだ。時々、広い道に出るとアークンは連続カーブや片輪走行と いった自前のドライビングテクニックを繰り出し、ジェットコースター並みの乗車感を演出して、半分本気のスリルを味わせてくれた。今度の新しい(?)車も、 外装は少しマトモにはなったが、中身ほとんど以前と変わっていない。
これまで台湾各地で乗せてもらった車はどれも、気持ちのよいくらいボロボロの車ばかりだった。台中の木工所の親方の車も、台南のユイの車も、シートもボロボロ、内装はところどころはげ落ち、エンジンはダタピシといつも悲鳴を挙げている。それでも、そんな車に乗った時ほど、車に乗る事が楽しく思えるから不思議だった。車に乗り込むと、ハンドルを回して窓をあけて風を取込む。小さなキズの一つや二つ気にせず、ただただ人間の足として、ぼろぼろになるまで健気に人間たちを乗せて行ったり来たりする車たちは、初めて乗るのにまるで足に馴染んだサンダルみたいな親近感がある。みんなサンダルをさっと履くように車やバイクに乗って、ふっとどこかに出かけて行く。人間にどこまでも仕える道具としての使命を忠実に果たしていている。そしてその多くは色を塗ったり、修理したり、持ち主の手がいたるところに入っていて、原型をとどめていない。道具としてカスタマイズされる車。そこには、人間とモノの健全な関係の痕跡が至る所に見える。
日本はピカピカな車が多い。最近だとソウルや北京もそうだろう。北京に行った時に見た高級自動車のCMを覚えている。高級車の後部座席に乗った2人の子供 がどちらの車が優秀かを窓越しにアピールするという内容のCMだった(最後は宣伝されている車に乗った子供が優越感に浸った顔でソフトクリームをなめながら、相手の子供が乗った車を追い越すというもの)。車は確かにステータスやシンボルでもある。わかりやすい社会的地位の記号だ。良い車を手に入れて、まわりからよく見られたい。その欲望を喚起させることで、自動車産業は次々に新しい車を売り出して、消費者はまだ乗れる車でも買い替えて新しく購入してきた。 イメージによる欲望の喚起と他者との差別化。動く社会的ステータスとしての車はいつもキズ一つなく、ピカピカしている。そしてそのような美しさを維持する ために、大量の水を使って洗い上げる。透明な水はあっという間に、茶色く濁り排水溝へと流されてゆく。水を汚し、磨き上げられた車。倒錯した世界。
そういえば、日本でもボロボロの車に乗ったことがある。素人の乱、松本さんのミニバンだ。白地に青で塗られたバンのドアには「素人の乱」と筆で書かれてい て、ピカピカな車だらけの多い東京の街中ではかなり目立つ。デートなんかでは絶対に乗て来たくはない車だろう(もちろん、これは仕事用の車なのだが)。この前、台湾と香港の友人たちとこの素人の乱号に乗った。環八を下る最中、みんな後部座席でだんごみたいくっついて、中国語で話をしたりくすくす笑ったりしている。映像作家のピンティは寒空なのに窓を全開にしてタバコに火をつけて、煙をたなびかせている。東京の冷たい風が車内に入り込んで、車の中にいるのに 野外にいる感覚。ボロボロの車に愉快な友人たちと一緒に乗り込むと、「かっこよさ」「高級感」といった価値感で構成されている世の中のはまったく別の世界を走っている気分になる。六本木、青山、表参道、どこを走ろうがおかまいなしの不思議な開放感がある。それは、全く別の世界の風を運んでくれる。おそらくボロボロ車に吹き込んでくる風は、台南の夜市、キューバの海辺、インドネシアの田園風景と繋がっているのだろう。「人間が使う限り、モノや道具はい つか朽ち果てる。いちいち細かい事を気にすんな。それより今からみんなで一緒にどこかに行こうよ」ボロボロの車に乗るといつもそんな声が聞こえてくるよう な気がするのだ。