台湾に王庚(アークン)という男がいる。2013年5月、当時日本と台湾の反核運動を繋げる活動をしていた陳炯霖(ダン•ギンリン)の住む台南に遊びに行く時、彼から「台湾に来たら俺の人生の師匠に会わせてやるよ」と言われたことが出会いのきっかけだった。陳さんは高円寺「素人の乱」の松本哉さんの著書「貧乏人の逆襲」の中国語版の翻訳者でもあり、2011年9月に韓国、釜山で開かれた香港、日本、韓国で自分達の「場所」を作り、文化•社会活動をする人たちのシンポジウムに遊びに来ていたり、2012年4月に香港で開かれた「アジア有象無像会議」には台湾のカフェ•イベントスペース「直走珈琲」のメンバーとして発表をしたり、日本と台湾、そして東アジアの国々を縦横無尽に行き来していた。
そんな行動力あふれる陳さんの師匠とはどんな人物なのか、松本さん曰くアークンは「台湾の野生児だ!」と言うが、いまいちピンとこない。けれど、彼と会った時にその意味がはっきりとわかったように気がした。アークンはたしかにこれまで会った人とは違う。才能があるとか、頭脳明晰だとか、商才があるというような基準が全く意味をなさない地平に生きる人という意味でも「野生児」だった。それは「近代人」に対置される「未開の人」や「原住民」を指すのではなく、「生きること」についての独自の考え方を暮らしの中から育み、それを自らの身体に知恵として備え、実践として他者に分け与えるという意味で、「野生の思考(レヴィ=ストロース)」を持つ人だということだ。
アークンと初めて会った場所は、台南の町外れ、アンピンの港近くの再開発された綺麗な公園の中だった。公園の木立の中でたき火をたいて、5、6人が輪になって座っている。木と木の間ハンモックをかけて腰をおろし、ゆらりとゆれて、時折たき火に火をくべている中年の男性、それがアークンだった。裸の上半身は赤銅色に焼け、眉には緑色の入れ墨、首の両側にも丸い輪の入れ墨が入っている。にこっと笑う口には、前歯が2本だけ。でも、目は黒々と輝き、眼光は鋭い。現代で、いきなり原始の時間を生きる人に出会ったような衝撃を受けた。
彼がつくりだす時間と空間はどれも印象深く心に残っている。アークンはどこであっても即興的に場所を作り出すことができる。不思議なことに、彼が座るところに、皆があつまって座るのだ。必ず火をたいて、たき火の周りで酒を回し飲み、ピンロウ(ヤシの噛みタバコ)噛み、日が暮れていく中でゆっくりと皆で話す。時計が進める世の労働の時間からふっと離れた小島のような時間に包まれる。この小島のような時間が、日々の暮らしの中に、当たり前のように存在していること。いつでも皆で集まる時間と空間があり、それは何も特別な店や場所ではなく、どこでも(他の人が文句を言ってこない限り)簡単に作れてしまうということに新鮮な驚きを感じたのだ。火、酒、そしてそれを囲む仲間たち。それは日本での自分の暮らしでは全く想像もできない時間の過ごし方だった。アークンは、このような時間と空間を自分の身体の中に「技術」として持っている。その技術の秘密は、彼の暮らし方にある。彼はこの20年間自分の「家」を持たずに台湾中を転々と歩いて暮らして来たからだ。
アークンは昔は「アーティスト」だったという。台北で生まれ、若い頃は鉄のオブジェや彫刻を作っていて、自分の作品集もある名の知れた作家だったそうだ。けれども今は作家活動をやめて、自分のことを「一労働者」と呼んでいる。そして、台湾各地を歩いては、仲間の場所を訪ねて、移動しながら暮らしている。お金が必要な時は溶接の仕事や季節労働をするが、お金が必要と感じる時は「ピンロウ」と「タバコ」を購入するとき以外ほとんどないと言う。そういえば、ピンロウを買う時にアークンが取り出す台湾ドル札は、たいていポケットの中にくしゃくしゃに丸められていたり、車のダッシュボードの隅っこに挟まっていたりして、ぼろぼろになっている。普段の暮らしの中では、アークンの中ではお金は「ピンロウ引換券」くらいの意味合いなのかもしれない。
今、アークンは、アンピンの漁港で見つけた不法破棄された船に潜り込み、勝手に改造して暮らしている。自分の船ではないけれど、「ここの船の管理をまかされている」と言って、けろっと住み着いているのだ。アークンはどこにでも自分の家を見つけ、作る。この場合、家というよりも人間の「巣」と言った方が近いかもしれない。海岸線のテトラポットの下に発泡スチロールを敷いてベッドを作る、煙突の下でろうそくを建てて住む(雨が降ったらどうするのだろう)、橋の下に小屋を建てて住み込む。自分で巣をつくらない時には、自分の車の中や、友人の家やお店で寝泊まりしていることも多いという。どこでも1〜3ヶ月くらい、自分がそこに居たいと思うまで滞在して、また出発する気持ちになれば片付けて次の場所に向かう。海に近い場所では、海で魚や貝を採って暮らす。山では薬草や野草をとってくる。独自の触診で体のどこが具合が悪いのか診断することもできる。
アークンにとっては、自分の家を所有する/所有しないということはさして大きな問題ではないのだろう。言うなれば、彼にとっては台湾という島そのものが大きな家のように捉えているのかもしれない。この島の中にからだが一つはいるだけの小さな巣をつくり、少しだけ身を寄せる。そして、また旅だってゆく。だからこそ、どこでも寝る場所を見つけ、作り、暮らす技術を身につけている。自分の身一つで「場所」を作る。そして、今はたまたま船の上に暮らしている。彼にとって家は買うものではなく、見つけたり、作ったりするものなのだろう。
アークンが「俺は今、世の中にも、社会にも何一つ不満がないし、この地球上で何かを欲しいと思わなくなったんだ」と話したことがある。僕はそんなことってあるのだろうか、と驚いた。誰でも何かしら不満の一つやあるだろうし、むしろ社会の規範とは異なる生き方をしている人間ならば今の社会に対するやるせない憤りがあるはずだと思っていたからだ。もちろん、アークンは日本の原発事故に心を痛め、台湾の原発政策や無秩序の再開発に怒っている。でも、不満はない。怒りと不満は違う、と彼はいう。
松本さんは「アークンは、自力でこの世界を生きて行く技術を身につけている。何が起こっても自分の技術と知恵で生きて行いけることを経験で知っているから、社会がどうあろうとも不満がないんだろう」と話す。自らがすでに満たされている状態にあること。自分の生き方を誰かと比較することなく、そのまま肯定し、今、ここに生きることを喜びとして受け止めること。そこには自立した人間のエネルギーが生まれ、それが他者に良き波動として伝わって行く。
アークンに限らず、台南の友人たちの多くは、見返り無しに自分の手元にあるものを分ける。ごく自然に、当たり前にそうするのだ。タバコでも、ピンロウでも、ご飯でも。アークンの船を訪問した時には、養殖していた牡蠣の殻をむいて、自家製の生ガキと台湾の米焼酎を振る舞ってもらった。いつも、あまりの気前の良さに面食らう。「ミンナ、Food タベル、タベル」。料理を作るといつもアークン独特の中国語、日本語、英語ミックスのクレオールのような言語(アークン語と呼んでいる)で僕たちに声をかけてくれる。この「分け与える」という振る舞いは、台南の友人たちもそうだし、アジアや海外でこれまで出会って来た人たちに共通した振る舞いだ。最初は、これも何かの打算があるのだろう、と一瞬訝ったこともあったが、卑しいのはいつも損得勘定で他者との関係性を推し量る自分の思考法にあるとすぐに恥じた。
もちろん、いつも、誰とでもこのような関係が築けるわけではないかもしれないが、彼らは「生きて行くこと」と「所有すること」を切り離して考えているように思う。モノを所有することに喜びを見いだす代わりに、モノを分け与えることに喜びや満足感を感じているようにも思える。そして、いまこの瞬間に「共にいる」ということが、常に「分け与え/分け与えられる」という関係によって成り立っていること、この関係が普段の暮らしの様々な場面において連鎖していることを肌身で知っている。誰かと一緒にいること、一緒に暮らすことは、互いに贈与し合う関係が継続することで可能になる。だから、アークンは一緒に暮らす仲間を「家族」と呼ぶ。「家族」こそが人が共に集まって生きる基本の単位であり、集まって生きることの矛盾も含めて「家族」は贈与の絶え間ない関係の連鎖としてのみ存在するからだ。血のつながりではない「家族」の集まり。人類学には「民族形成性」という概念がある。民族とは元々、血のつながりというよりも、ある価値観や倫理観を共有するプロセスの中で集団化していった人々である、という考え方だ。ここでアークンのいう家族もまた、倫理や価値観を共に共有していく最小単位の「政治的プロジェクト」の実践なのかもしれない。
贈与の繊細な相互関係が築く「家族」の膜をメンテナンスしていくために、いつも一緒にご飯を食べ、酒を飲みながら同じ食卓に座り、一晩中いろいろな話をする。ばらばらで無関係だった人々が国境を越えて集まり、暮らし「家族」になっていく。国境を越えて「場所」をつくることから血縁や国籍を越えて「家族」をつくることへ。台南での出会いは、人と人の「移動」と「出会い」がもたらすアジアでの新たな暮らし方を僕に教えてくれたのだった。