今年の春に香港に行った際に、友人Lee Chun FunとMichael Leunに連れていってもらった中国本土、広州の第三都市「東莞」の写真を半年遅れで現像。清時代から続く古い街並がまだわずかに残っていて、巨大な再開発が進むなかこの街並を守ろうと活動する若い文化活動者たちにも出会った。この古い商店街には昔からの竹細工の店があり、店の主人が軒先で竹の籠を作っていた。失われていくのは建物だけでなく、このゆったりと流れる時間や暮らしと仕事が混然としつつも調和している様子、人びとの声が交わる夕暮れの路地の姿だったりするのだ。
Pencil of light 10 : Paris 01
pencil of light 09 : Pencil of Light 09 : Pelči,Kuldīga, Latvia 02
Pencil of Light 08 : Pelči,Kuldīga, Latvia 01
2014年の7月、ラトビアで行なわれた写真ワークショップ「ISSP 2014」に参加した。滞在した場所は、首都リガから2時間ほど離れた小さな町、クールディガのそのまた先のペリシという小さな集落。1週間、古い屋敷の中に現像ルーム、プリントワークショップ、講義室を作り、泊まり込みで写真家のクラスに入り、製作するというス大掛かりなワークショップだった。ヨーロッパを中心に20~30代の若い写真家たちが集まっていた。僕はアメリカ人の写真家 Mark Steunmets のクラスを取っていた。華奢な体つきをした、優しい眼のゲイのおじいさん、という印象で、テクニカルな知識というより、それぞれの参加者の写真を見ながら、映っている被写体の表情、空間と身体の位置のバランス等を評していくというのんびりとしたスタイルだった。僕は、もっと実践的なクラスが良かったので、Saimon Norfolk のクラスの、その地域について徹底的にリサーチしつつ、朝4時に車で森の中に撮影に皆で行くっというようなマッチョな講座を横目でうらやましいなと思いつつ、カメラを片手にあても無く村の周りをとぼとぼ歩いて回っていたのだった。
pencil of light 07, 23.08.2014, Magdeburg, Germany
去年の8月、ドイツのmagdeburg近郊で行なわれていた反戦キャンプ「War Starts Here camp」を訪問した時、オーガナイザーのCの車に乗って、ブロッケード(座り込み)をしていた人たちを見回っていた時の一枚。白樺の木々が午後3時の夏の光を鋤いて、地面に柔らかな縞模様を作り出していた。数歩足を踏み入れただけで、外の気配がすっと消え去り、別の世界に入り込んだかのような心地だったのを覚えている。
Pencil of Light 06 : Tokyo 2009
Pencil of light 05 : Itoshima, Japan
夏がくる、なつがくる。海はピカピカひかる。向こうで2色の青がぴったりと背中を合わせている。
砂浜を走ったり、まるい岩から飛び込んだり。浮かびながら海と空の境目を見てみる。子供たちの中に海が入り込む。ひとつの瞬間は常に頭上でぎらぎらと止まったままだ。
Pencil of Light 04 : Khabarovsk, Russia 2011
Pencil of Light 03: Vladivostock Russia 2011
夕暮れ時、ウラジオストクの街から少し外れの海岸通りまで散歩した。海沿いの坂を登っていくと、その下に人気のない古びた海水浴場が見える。色あせたビーチパラソルの下でスナック菓子を売るおじいさんがぼんやりと座って海を眺めている。旧ソビエト時代のものなのだろうか、海辺に突き出した客船の形をしたレストランが、砂浜と海のあいだに留まっている。まるで、今まさに進水する直前で座礁してしまったかのように。短い夏が終わった今、また長い冬の日々が過ぎるまでこのビーチには静けさがともるのだろう。小さく繰り返すさざ波の音と共に。
Pencil of Light 02: Vladivostock, Russia 2011
ウラジオストクの朝市。駐車場にトラックやバンで乗り付けて、車の前にテーブルを出して各自持って来たものを並べている。手作りの蜂蜜、ニシンの薫製、箱一杯の赤いベリー、肉厚の白いキノコ、巨大なカボチャ、目の前で切り分けられる豚肉の塊、そしてピンク色をした大きなサーモンの切り身。街が動き出す時間。
Pencil of Light 01 : Vladivostock, Russia 2011
初めてロシアに行ったのは2011年の秋だった。以前の勤め先の出張でウラジオストク、ハバロフスクに数日間滞在した。成田から90分飛ぶたけで、日本か ら遥か遠方に位置するはずの「西洋」に辿り着く。それはこれまでのアジア-ヨーロッパ間の距離感覚がひっくりかえってしまうような、そんな驚きだった。無表情でパスポートを受け取る入管職員、ギシギシときしむバスの座席、砂利や埃と混じり灰色になった残雪、ペンキがはげて下地が むき出しになった駅の壁。市街地に途中には荒削りのコンクリートアパートが深い紺色の丘陵に立ち並び、そこから小さなオレンジの灯りがいくつもきらめいて いた。排ガスにまみれた工事中の道路とクラクションを鳴らしつつ猛スピードで追い抜いて行くトラックの赤いテールランプの列。泊まったホテルでは、中国語 と韓国語があちらこちらから聞こえてきた。市内に着いたのは夜10時を過ぎて街はもう静まり返っていたが、せっかく来たのだからと思い黒のフード を被って切って外に出てみることにした。人通りのない坂道の両側には4階建ての石造りのアパートがぼんやりとその巨体を虚空の方へ横たえていた。息を吐く と白い小さな煙が口元から立ち上がる。小さな見えないピンで貼付けられたかのようにちくちくと顔の皮膚を冷気が突き刺す。初秋に入ったばかりだが、たしかにシベリアの大地そのものが凍り付く季節の入り口に立っているのだと実感した。
それでも、翌日は快晴。当時は日本語教育関係の仕事だったのでホテルでの日本留学説明会にブースを構えていたが、おそらく日本文化やアニメフェスと勘違いをしてきたであろう、アニメコスプレをしてきた若者たちが印象深かった。会場では周りも気にすることなくナルトやハンターハンターなどの衣装を纏ってお互いにポーズを決めて写真を取り合う。後でふと、こういうアニメや漫画が好きなロシア極東の若者たちがのびのびと外で写真を取ったり、コスプレで外出できる場所というのは思っているほどまだ多くないのでは、と思うようになった。彼ら/彼女らにとっては、そこが日本語学校の説明会場であろうとも自分の好きな日本のオタクカルチャーを人目を気にせず表現できる場だったのかもしれない。アニメ「千と千尋の神隠し」のカオナシのコスプレが、日本語学校のブースにちょこんと座って説明を聞いている姿はなかなかシュールだった。午後に仕事関係の人たちと市内のツアーで、日本領事館、日本人センターを回り、最後にウラジオストク市街にある高台に登り、金角湾を一望する。結婚式のための撮影だろうか、ロシア人のカップルと友人たちが丘の上のモニュメントに集まっていた。ぴりぴりと冷たいが気持ちのいい風が北から吹いてくる。シベリアから吹く風を思い切り吸い込んでみた。少し霞がかった空の下、秋の光がウラジオストクの街の輪郭を少しだけ柔らかいものにしていた。
OKINAWA STAIRS
那覇の街の階段たち。建物から半分飛び出したようなかたちで、シンプルな造形だけれども見飽きない。階段の踊り場にふと立ち止まって、欄干を背にちょっと寄りかかりたくなるような、そこで一服したくなるような。上り下りの日々の運動のリズムの中に入りこむフェルマータのような踊り場。
小倉角打放浪記
先週、キルギスのドキュメンタリーを作っている博多っ子純情ことAtsushi Kuwayamくんが案内してくれた「北九州角打ツアー」が、やたら楽しくて印象深い街歩きの経験だったのでちょっとした備忘録をここに。
知っている人も多いとは思うけれど「角打(かくうち)」は、普通の酒屋で酒を購入して、そのまま店内で飲むことのできる場所のことだ。飲食店ではなく、酒屋で販売した酒をお客さん達(勝手に)飲んでしまうというアクロバティックな解釈によって成立している酒屋。酒を飲むことに関わる既存の法規制から限りなくずれてゆこうとする態度がすでに挑戦的ですらある。
でもそもそも角打が北九州で流行った理由は、実にこの街の実情に合ったものだった。鉄と石炭の街、北九州では八幡製鉄所をはじめとして日中夜問わず稼働する工場が多く、そこで働く労働者たちは交代や休憩のわずかな時間に酒屋に入り、そこで1,2杯注文してさっと飲み干して帰ってゆく飲み方をしてたという。そんな彼らのニーズから生まれた酒と社交の場が角打であり、今でもここ北九州にそのような場が点在している。工場の衰退と共に少なくなってきているというが、それでも他の地域に比べたらまだまだ多い。労働者たちの労働と暮らしのリズムが生み出した「街飲み文化」だと言える。そういえば人類学者のグレーバーも、良き文化というものは、すべからく労働者階級が生み出して来たのだと話していたっけ。うんうん。
そんな角打ツアーに、韓国人の友人で文化経済政策の若手研究者リュウくんと、福岡に滞在研究している釜山発展研究所のオウ先生を誘ってみた。最初は大勢でわいわいと居酒屋的イメージで考えていたけれど、外の人間が大勢で入るのは無粋ですよ、というアツシ君の助言もあり少人数で行くことに。北九州の角打は初めてだったけれど、どこの店も本当に面白い。外見は普通の酒屋。大正初期から営業している由緒正しき酒屋の店内にはカウンターがあり、昼過ぎにもかかわらず近所のおっちゃんたちでにぎわっている。お店のおばちゃんにことわって、ビールを冷蔵庫から自分で取ってくる。つまみは缶詰や乾きもの、そして簡単な自家製の小料理の品ぞろえ。大瓶のビール2本とつまみ2点くらいで1000円ちょっと。で、4人の大人がにやけた顔しながら、韓国式でビールを注ぎ合う午後3時。
リュウ君曰く、韓国にも南部の方には立ち飲みで飲む店があり、その呼称を「통영다치(トンヨンダチ)」と言うので、「Tach-Dachi」という似た音 が共通して入っていたり、天ぷらやタコの干物等のつまみの類いが似ていたりと何かしら共通するものが多々見つるという話で盛り上がる。これは面白いという ことでオウ先生と韓国南部と北部九州の酒と食の民衆交流史の地層を掘ってみようという話に。韓国には「酒を飲むなら昼の酒」というありがたい言葉まであるらしい。
そんな風にして、次から次に吸い込まれるように酒屋に入っていく。ほろ酔い気分で若松の人通りの少ない商店街を歩いていると、あの空家で何をしようかしら、おやこっちのビルはまたいい造りだなぁ、ゲストハウスにちょうど良さそう、などと都合の良い妄想も膨らんでゆく。雨上がりの夕暮れ時、若松の街並が淡いオレンジ色へと塗り替えられてゆくその一瞬、過去にこの街に住んでいた人たちの声や姿が、路地を透かして浮かんで見えてくるようにな気にさえなる。路地に隠れていたゲニウス•ロキたちが、「うつつと夢」の間に漂う自分のまなこの前をさっと横切っていく。今はどんなにさびれていようとも、このように過去を想起することで、かつて見た/まだ見ぬ/見るかもしれぬ街の相貌(by アツシ君)が、アスファルトののっぺりとした空間を突き破りタケノコのようにあちらこちらにニョキニョキ生えてくる。
酒に酔いつつ街を歩くことは、都市の、街の経験を変容させる。機能と記号の配列がほどけ、緊張を強いられた身体は解放感に満ち、だんだんと地上から少しずつ足が離れていく。無目的かつむやみににうろうろしてしまう。そう、自分を含め、街を構成しているあらゆるモノが弛緩し、 2つの境界線があいまいに入り交じる。もちろん、それはただ私自身が酔っているからに過ぎない。でも泥酔ではない。その手前で留まりつつ、街のなかで正気と夢のあいだを歩く。
若松から戸畑へ渡る連絡船の甲板席に吹く潮風が心地よい。夕暮れ時、戸畑駅のホームで偶然、アツシくんの友人でドキュメンタ リーを製作中の荻野さんに会う。元々京都育ち、建築畑で、今は北九州の平松という漁師地区に6年間住み込んでドキュメンタリーを撮影しているという。そこまで徹底して日々の暮らしの有り様を記録しようとする姿勢に、背中の深いところを打たれたような衝撃を受ける。どんな映画になるのだろう、観てみたい。そのまま半ば強引に(?) 、門司の角打へ行きましょうとお誘いして、みんなで夜の門司港へ。今日最後の角打、門司港にある「魚住」は、小さい店だが30分ごとにおいしいお通しを並べてくれる、素敵な隠れ家のような店。母方が門司で、よく近所に遊びに来ていたにもかかわらず全く知らなかった。来て良かった。
最後の締めは、北九州の人間で知らないという人はいないという小倉駅前の名店「白頭山」にて100円ビールとホルモン焼きで、合計8時間に及ぶ小倉角打放浪記は終了。
角打の店に入ると、たいていその地域に詳しいおじさんやおばさんがいて、過去のに街の情景と人びとの姿を生き生きと話してくれる。その土地に生きる人たちの集合的記憶が、酒とともによそ者の自分の身体にも染み込んでいくかのようだ。そうか、このように街を、人びとの歴史を、暮らし知る回路もあるのか、と恥ずかしながらも改めて素朴かつ新鮮な驚きを得る。過去の街と人びとのイメージ•記憶に至る「敷居」としての角打。言葉と身体と酒。店に入る時は控えめに、でも店から出るときは愉快な足取りで。
角打とは都市の句読点なのかもしれない。それは労働の規律がキリキリと締め付けていた身体を解きほぐし、頭の中で狭められていた夢想の陣地を解放し、硬い足取りを千鳥足に変えてゆく。そして、この句読点の穴のなかで、ゆっくりと自分たちの時間を回復させてゆく。句読点なき都市は、無人工場の延長でしかない。正気の白い光が降り掛かる真昼時、角打に集まる「遊歩者(フラヌール)」たちは路上一つ一つのカーブを味わい、二重にぼやけた小道の上で不思議なダンスを舞い、都市の幽霊を再び呼び込む。あるひとつの街とそこに生きる/生きた人びとの過去=記憶と<今、ここ>で出会い直し、共に飲もうと思えばこそ。
「夏風や角打の背を押しにけり」 折尾の角打の軒先で、風鈴につり下げられていた一句(詠み人知らず)。
※ ということで、ぜひぜひ若松•戸畑•小倉の角打ツアー第2弾をしたいと思っています。一緒に行きましょう!
トビウオの味
何でも美味しい台湾だけれど、一番美味しいと思ったのはトビウオのスープだ。台湾の東の街、台東から船で2時間のところにある島、蘭嶼(ランスー)島で出会ったトビウオのスープは、これまで食べて来たなかで一番美味しいスープだった。まるまる一匹の大きなトビウオを寸胴鍋で煮込んでできた白濁のスープは、一口飲むとほのかな磯の香りと共に、魚のコクのある深いうまみが口の中に広がり、こんなに美味しいスープがあるのか、と舌が震えるほどだった。
台南でも、アークンが自分の車のバックミラーに括り付けているトビウオの干物を水でもどしてトビウオスープを作ってくれたことがある。少し塩辛かったが、それでもしっかりとした味で、茹でた麺や野菜にかけて食べるととても旨かった。早朝一番近所の市場で買って来たマグロやイカの刺身も新鮮だった。僕自身、原発事故以降、魚料理に関しては手を付けるのを躊躇してしまうこともしばしばあった。台南の海の幸を味わうことは、幸せを感じると同時に、日本が失ってしまったものの大きさ、途方も無さをも改めて教えてくれるのだった。
「巣」と「家族」
台湾に王庚(アークン)という男がいる。2013年5月、当時日本と台湾の反核運動を繋げる活動をしていた陳炯霖(ダン•ギンリン)の住む台南に遊びに行く時、彼から「台湾に来たら俺の人生の師匠に会わせてやるよ」と言われたことが出会いのきっかけだった。陳さんは高円寺「素人の乱」の松本哉さんの著書「貧乏人の逆襲」の中国語版の翻訳者でもあり、2011年9月に韓国、釜山で開かれた香港、日本、韓国で自分達の「場所」を作り、文化•社会活動をする人たちのシンポジウムに遊びに来ていたり、2012年4月に香港で開かれた「アジア有象無像会議」には台湾のカフェ•イベントスペース「直走珈琲」のメンバーとして発表をしたり、日本と台湾、そして東アジアの国々を縦横無尽に行き来していた。
そんな行動力あふれる陳さんの師匠とはどんな人物なのか、松本さん曰くアークンは「台湾の野生児だ!」と言うが、いまいちピンとこない。けれど、彼と会った時にその意味がはっきりとわかったように気がした。アークンはたしかにこれまで会った人とは違う。才能があるとか、頭脳明晰だとか、商才があるというような基準が全く意味をなさない地平に生きる人という意味でも「野生児」だった。それは「近代人」に対置される「未開の人」や「原住民」を指すのではなく、「生きること」についての独自の考え方を暮らしの中から育み、それを自らの身体に知恵として備え、実践として他者に分け与えるという意味で、「野生の思考(レヴィ=ストロース)」を持つ人だということだ。
アークンと初めて会った場所は、台南の町外れ、アンピンの港近くの再開発された綺麗な公園の中だった。公園の木立の中でたき火をたいて、5、6人が輪になって座っている。木と木の間ハンモックをかけて腰をおろし、ゆらりとゆれて、時折たき火に火をくべている中年の男性、それがアークンだった。裸の上半身は赤銅色に焼け、眉には緑色の入れ墨、首の両側にも丸い輪の入れ墨が入っている。にこっと笑う口には、前歯が2本だけ。でも、目は黒々と輝き、眼光は鋭い。現代で、いきなり原始の時間を生きる人に出会ったような衝撃を受けた。
彼がつくりだす時間と空間はどれも印象深く心に残っている。アークンはどこであっても即興的に場所を作り出すことができる。不思議なことに、彼が座るところに、皆があつまって座るのだ。必ず火をたいて、たき火の周りで酒を回し飲み、ピンロウ(ヤシの噛みタバコ)噛み、日が暮れていく中でゆっくりと皆で話す。時計が進める世の労働の時間からふっと離れた小島のような時間に包まれる。この小島のような時間が、日々の暮らしの中に、当たり前のように存在していること。いつでも皆で集まる時間と空間があり、それは何も特別な店や場所ではなく、どこでも(他の人が文句を言ってこない限り)簡単に作れてしまうということに新鮮な驚きを感じたのだ。火、酒、そしてそれを囲む仲間たち。それは日本での自分の暮らしでは全く想像もできない時間の過ごし方だった。アークンは、このような時間と空間を自分の身体の中に「技術」として持っている。その技術の秘密は、彼の暮らし方にある。彼はこの20年間自分の「家」を持たずに台湾中を転々と歩いて暮らして来たからだ。
アークンは昔は「アーティスト」だったという。台北で生まれ、若い頃は鉄のオブジェや彫刻を作っていて、自分の作品集もある名の知れた作家だったそうだ。けれども今は作家活動をやめて、自分のことを「一労働者」と呼んでいる。そして、台湾各地を歩いては、仲間の場所を訪ねて、移動しながら暮らしている。お金が必要な時は溶接の仕事や季節労働をするが、お金が必要と感じる時は「ピンロウ」と「タバコ」を購入するとき以外ほとんどないと言う。そういえば、ピンロウを買う時にアークンが取り出す台湾ドル札は、たいていポケットの中にくしゃくしゃに丸められていたり、車のダッシュボードの隅っこに挟まっていたりして、ぼろぼろになっている。普段の暮らしの中では、アークンの中ではお金は「ピンロウ引換券」くらいの意味合いなのかもしれない。
今、アークンは、アンピンの漁港で見つけた不法破棄された船に潜り込み、勝手に改造して暮らしている。自分の船ではないけれど、「ここの船の管理をまかされている」と言って、けろっと住み着いているのだ。アークンはどこにでも自分の家を見つけ、作る。この場合、家というよりも人間の「巣」と言った方が近いかもしれない。海岸線のテトラポットの下に発泡スチロールを敷いてベッドを作る、煙突の下でろうそくを建てて住む(雨が降ったらどうするのだろう)、橋の下に小屋を建てて住み込む。自分で巣をつくらない時には、自分の車の中や、友人の家やお店で寝泊まりしていることも多いという。どこでも1〜3ヶ月くらい、自分がそこに居たいと思うまで滞在して、また出発する気持ちになれば片付けて次の場所に向かう。海に近い場所では、海で魚や貝を採って暮らす。山では薬草や野草をとってくる。独自の触診で体のどこが具合が悪いのか診断することもできる。
アークンにとっては、自分の家を所有する/所有しないということはさして大きな問題ではないのだろう。言うなれば、彼にとっては台湾という島そのものが大きな家のように捉えているのかもしれない。この島の中にからだが一つはいるだけの小さな巣をつくり、少しだけ身を寄せる。そして、また旅だってゆく。だからこそ、どこでも寝る場所を見つけ、作り、暮らす技術を身につけている。自分の身一つで「場所」を作る。そして、今はたまたま船の上に暮らしている。彼にとって家は買うものではなく、見つけたり、作ったりするものなのだろう。
アークンが「俺は今、世の中にも、社会にも何一つ不満がないし、この地球上で何かを欲しいと思わなくなったんだ」と話したことがある。僕はそんなことってあるのだろうか、と驚いた。誰でも何かしら不満の一つやあるだろうし、むしろ社会の規範とは異なる生き方をしている人間ならば今の社会に対するやるせない憤りがあるはずだと思っていたからだ。もちろん、アークンは日本の原発事故に心を痛め、台湾の原発政策や無秩序の再開発に怒っている。でも、不満はない。怒りと不満は違う、と彼はいう。
松本さんは「アークンは、自力でこの世界を生きて行く技術を身につけている。何が起こっても自分の技術と知恵で生きて行いけることを経験で知っているから、社会がどうあろうとも不満がないんだろう」と話す。自らがすでに満たされている状態にあること。自分の生き方を誰かと比較することなく、そのまま肯定し、今、ここに生きることを喜びとして受け止めること。そこには自立した人間のエネルギーが生まれ、それが他者に良き波動として伝わって行く。
アークンに限らず、台南の友人たちの多くは、見返り無しに自分の手元にあるものを分ける。ごく自然に、当たり前にそうするのだ。タバコでも、ピンロウでも、ご飯でも。アークンの船を訪問した時には、養殖していた牡蠣の殻をむいて、自家製の生ガキと台湾の米焼酎を振る舞ってもらった。いつも、あまりの気前の良さに面食らう。「ミンナ、Food タベル、タベル」。料理を作るといつもアークン独特の中国語、日本語、英語ミックスのクレオールのような言語(アークン語と呼んでいる)で僕たちに声をかけてくれる。この「分け与える」という振る舞いは、台南の友人たちもそうだし、アジアや海外でこれまで出会って来た人たちに共通した振る舞いだ。最初は、これも何かの打算があるのだろう、と一瞬訝ったこともあったが、卑しいのはいつも損得勘定で他者との関係性を推し量る自分の思考法にあるとすぐに恥じた。
もちろん、いつも、誰とでもこのような関係が築けるわけではないかもしれないが、彼らは「生きて行くこと」と「所有すること」を切り離して考えているように思う。モノを所有することに喜びを見いだす代わりに、モノを分け与えることに喜びや満足感を感じているようにも思える。そして、いまこの瞬間に「共にいる」ということが、常に「分け与え/分け与えられる」という関係によって成り立っていること、この関係が普段の暮らしの様々な場面において連鎖していることを肌身で知っている。誰かと一緒にいること、一緒に暮らすことは、互いに贈与し合う関係が継続することで可能になる。だから、アークンは一緒に暮らす仲間を「家族」と呼ぶ。「家族」こそが人が共に集まって生きる基本の単位であり、集まって生きることの矛盾も含めて「家族」は贈与の絶え間ない関係の連鎖としてのみ存在するからだ。血のつながりではない「家族」の集まり。人類学には「民族形成性」という概念がある。民族とは元々、血のつながりというよりも、ある価値観や倫理観を共有するプロセスの中で集団化していった人々である、という考え方だ。ここでアークンのいう家族もまた、倫理や価値観を共に共有していく最小単位の「政治的プロジェクト」の実践なのかもしれない。
贈与の繊細な相互関係が築く「家族」の膜をメンテナンスしていくために、いつも一緒にご飯を食べ、酒を飲みながら同じ食卓に座り、一晩中いろいろな話をする。ばらばらで無関係だった人々が国境を越えて集まり、暮らし「家族」になっていく。国境を越えて「場所」をつくることから血縁や国籍を越えて「家族」をつくることへ。台南での出会いは、人と人の「移動」と「出会い」がもたらすアジアでの新たな暮らし方を僕に教えてくれたのだった。
ボロボロ車考
今年の秋に台南に行った時、アークンの車が、白のバンから赤茶色のワンボックスになっていたのに気がついた。以前の白いバンは、走っている最中にバラバラ に分解してしまうのではないかというような代物だったが、とうとう動かなくなってしまったので、知人からワンボックスを譲ってもらったらしい。アークンの昔のバンはいろんな意味で鮮烈な印象を残す車だった。白いペンキがはげかかり、いたるとことが凹んでいる外側には、水色やピンクの色に塗られた漂流物がぺ たぺたと貼られ、バンパーとヘッドライトに隙間には何故かペットボトルが刺さっていていた。床はさびだらけで、下の路面が見えるくらいの穴があいていた し、車内は足の踏み場もないほど、いろんな物(衣服、工具、拾って来た流木、網、酒の瓶等)が散乱し蓄積されていて、バックミラーにはトビウオの干物がつり下がっている。天井には黄色のランプが備え付けられ、他の車に割り込みされたり追い越しされそうになった時には、アークン怒りの罵声とともに点滅する仕 掛けになっていた。ハンドルには赤ん坊の人形が括り付けられていて、ハンドルを切るた びにすすにまみれた赤ちゃんの瞳がウインクするというホーンデットハウス並みの演出が施されていた。もはや、一見すると移動するゴミ屋敷といった風情をかもしつつ、大音量の台湾演歌を流しながらアークンの車は飄々と僕らを運んでいったものだ。時々、広い道に出るとアークンは連続カーブや片輪走行と いった自前のドライビングテクニックを繰り出し、ジェットコースター並みの乗車感を演出して、半分本気のスリルを味わせてくれた。今度の新しい(?)車も、 外装は少しマトモにはなったが、中身ほとんど以前と変わっていない。
これまで台湾各地で乗せてもらった車はどれも、気持ちのよいくらいボロボロの車ばかりだった。台中の木工所の親方の車も、台南のユイの車も、シートもボロボロ、内装はところどころはげ落ち、エンジンはダタピシといつも悲鳴を挙げている。それでも、そんな車に乗った時ほど、車に乗る事が楽しく思えるから不思議だった。車に乗り込むと、ハンドルを回して窓をあけて風を取込む。小さなキズの一つや二つ気にせず、ただただ人間の足として、ぼろぼろになるまで健気に人間たちを乗せて行ったり来たりする車たちは、初めて乗るのにまるで足に馴染んだサンダルみたいな親近感がある。みんなサンダルをさっと履くように車やバイクに乗って、ふっとどこかに出かけて行く。人間にどこまでも仕える道具としての使命を忠実に果たしていている。そしてその多くは色を塗ったり、修理したり、持ち主の手がいたるところに入っていて、原型をとどめていない。道具としてカスタマイズされる車。そこには、人間とモノの健全な関係の痕跡が至る所に見える。
日本はピカピカな車が多い。最近だとソウルや北京もそうだろう。北京に行った時に見た高級自動車のCMを覚えている。高級車の後部座席に乗った2人の子供 がどちらの車が優秀かを窓越しにアピールするという内容のCMだった(最後は宣伝されている車に乗った子供が優越感に浸った顔でソフトクリームをなめながら、相手の子供が乗った車を追い越すというもの)。車は確かにステータスやシンボルでもある。わかりやすい社会的地位の記号だ。良い車を手に入れて、まわりからよく見られたい。その欲望を喚起させることで、自動車産業は次々に新しい車を売り出して、消費者はまだ乗れる車でも買い替えて新しく購入してきた。 イメージによる欲望の喚起と他者との差別化。動く社会的ステータスとしての車はいつもキズ一つなく、ピカピカしている。そしてそのような美しさを維持する ために、大量の水を使って洗い上げる。透明な水はあっという間に、茶色く濁り排水溝へと流されてゆく。水を汚し、磨き上げられた車。倒錯した世界。
そういえば、日本でもボロボロの車に乗ったことがある。素人の乱、松本さんのミニバンだ。白地に青で塗られたバンのドアには「素人の乱」と筆で書かれてい て、ピカピカな車だらけの多い東京の街中ではかなり目立つ。デートなんかでは絶対に乗て来たくはない車だろう(もちろん、これは仕事用の車なのだが)。この前、台湾と香港の友人たちとこの素人の乱号に乗った。環八を下る最中、みんな後部座席でだんごみたいくっついて、中国語で話をしたりくすくす笑ったりしている。映像作家のピンティは寒空なのに窓を全開にしてタバコに火をつけて、煙をたなびかせている。東京の冷たい風が車内に入り込んで、車の中にいるのに 野外にいる感覚。ボロボロの車に愉快な友人たちと一緒に乗り込むと、「かっこよさ」「高級感」といった価値感で構成されている世の中のはまったく別の世界を走っている気分になる。六本木、青山、表参道、どこを走ろうがおかまいなしの不思議な開放感がある。それは、全く別の世界の風を運んでくれる。おそらくボロボロ車に吹き込んでくる風は、台南の夜市、キューバの海辺、インドネシアの田園風景と繋がっているのだろう。「人間が使う限り、モノや道具はい つか朽ち果てる。いちいち細かい事を気にすんな。それより今からみんなで一緒にどこかに行こうよ」ボロボロの車に乗るといつもそんな声が聞こえてくるよう な気がするのだ。
Reclaim Merdeka Park (Malaysia)
マレーシアの首都、クアラルンプールの中華街。ミントブルーやイエローの古いコロニアル様式の建物や観光客でにぎわうアーケードを抜け、ゆるやかな坂道を登ってゆくとこんもりした丘とそれを囲む工事現場の青いフェンスが見えてくる。フェンスと道路の間のカーブには小さな空き地があり、毎週土曜日になるとそこに色々な人たちがやってくる。彼ら、彼女らは色とりどりのバナー、ポスター、ティーポットや小さな本棚を抱え、ピクニックシートや本物の芝生を敷いてその場所に座り込み、みんなで車座になって話し込んでいたり、本を読んだりして土曜の昼の時間をこの空き地で過ごしている。そして絵の具や画用紙を取り出し、寝そべりながらドローイングやスローガンを描いて、出来上がるとそのまま後ろのフェンスにぺたぺたと貼って行く。青い壁には大小さまざまな言葉や絵、写真がちりばめられている。スローガンの一つにはこう書かれている。「僕たちは何も売ったりはしない。ただここに座ってパーキング(Parkと-ingを掛け合わせた造語)を楽しんでいるんだ」。暑い南国の太陽の下、工事現場の一角で突如小さなピクニックが始まり、そして即席の野外展覧会が行われている。
実は、これはマレーシア人のアーティスト/活動家、ファミ•レザとリュー•ビッスヴォンのプロジェクト「Reclaim Merdeka Park」が毎週行っている座り込みの光景だ。ここにはかつてクアラルンプール中心部で一番大きな公園、ムルデカ公園があり、今は政府主導の大規模再開発プロジェクトの建設現場になっている。50年代の革新市政時代に建設され長らく市民の憩いの場だったこの公園は、90年代前半に再開発の為に取り壊され長らく放置された後、ここ数年で大規模金融センタープロジェクトの建設現場になってしまった。公共の場所や貧しい人たちの住宅街を民間企業の営利活動のために売り払うというのはアジアの都市再開発の常套手段だが、クアラルンプールも今まさにその渦中にある。
ファミはドキュメンタリーやポスター制作を通じて、このような巨大資本に飲み込まれつつある都市の公共空間の問題を提起し続けている。「緑あふれる見晴らしの良い公園は赤茶けた工事現場に変わってしまった。再開発が進むたびに、街から人間の自由な空間がどんどん無くなって、お金と商品のための空間に変わって行く。この座り込みはもちろん建設反対ではあるけれど、それ以上に自分達がかつて公共の場所でどうやって過ごし、暮らしをしていたのか、そんな過去の都市の記憶を思い出してもらう意味もあるんだ」。ムルデカ公園はすでに存在していない。けれども、かつて公園があった場所で公園での振る舞いを再演し、公園無き場所に再び一つの公園を生み出そうとしている。抗議と創造を結びつけたアーティビズム(アート+アクティヴィズム)の数々の実践は、今アジアの再開発の闘争現場で生まれて来ている。
活化廳 (Woofer Ten) 02
アートスペース「活化廳 (WooferTen)」は、油麻地、上海街に面したショップハウスの一階にある。アートスペースを名乗ってはいるけれども、いわゆるホワイトキューブと呼ばれるような白くてミニマルな空間とはいささか様相が異なっている。
ガラス窓やドアにはいつも壁新聞、告知文、新年のお札やらがぺたぺた貼られている。前の歩道には手作りのベンチが置かれていて、通りがかりのおじさんたちが座っていてガラス窓の壁新聞を眺めていたり、中国本土から観光に来た家族が腰かけてご飯を食べているが、アートには全く興味がないという様子だったり。黒いストッキングとヒールを履いた客引きの女性がWooferTenの外の壁に体を傾けつつ客を見定めている時もある。ドアを開けて中に入ると、地元のおばあちゃんやおじいちゃんたちがお茶を飲みつつ新聞を読んでいたり、中東から来た移民の子供たちが床で絵を描いたりする。路上の光景が、まるごとそのまま室内に入り込んで来たかのような空間なのだ。
室内には一目でアート作品であるとわかるようなものは見当たらない。緑色の壁には自分達で作ったポスターや張り紙があるが、内容はどうやら油麻地の地域コミュニティでの話し合いの記録のようだ。本棚があり、ベンチも置いてある。長方形の室内の真ん中には銭湯の番台のようなスペースがあり、運営メンバーは眼前に広がるに雑多な光景を横目に事務仕事をしている。低い階段を上がるとそこは地元の伝統的な看板、花牌を作る職人Mister Wonの仕事机がある。アートセンターの中に職人のおじさんの工房が入っているのだ。運営メンバーでアーティストでもある、リー•チュンフォン(Lee Chung Fong) は「いやー、最近はもう近所の人たちにオキュパイされちゃってねぇ」とのんびりとした口調で話す。そう、ここは街の人たちに見事にオキュパイされたアートセンターなのだ。
WooferTenは2009年から「アートはどのように地域コミュニティの活性化に寄与できるか」というテーマでこの油麻地を中心に活動している。組織としては香港芸術發展局の支援を受けているNPOで、現在の中心メンバーはアーティストのLee Cung Fung、Vangi Fongと書家/料理人のLoland Ripの第二世代だが、その他のメンバーたちや地域の人々、そして香港のアクティビストたちが共同でこのスペースを使い、展覧会やトークイベント、ワークショップを行っている。そういっても、WooferTenのコミュニティプロジェクトで商店の売り上げが上がったり、お客がよそからわんさか来る、ということは特段ない。油麻地の公園で手作り運動会をしてみたり、(香港ではおなじみの!)ゴキブリの小さなミニチュアを作るワークショップを開いたりと以外と地味だ。
WooferTenはまた、コマーシャルギャラリーの多い香港で、政治的表現や社会問題を扱った企画や展示を積極的に行っている。「64件事」は、天安門事件の記念日である6月4日に、当時の民主化運動の学生の服装をして自転車に乗り、香港の町中を巡るというクリティカルマス(Critical Mass:社会変革を意図した公共の場における集団行動)的アクションも行っているし、天安門事件をテーマにした絵画展は香港でもスキャンダラスな話題となった。
そうは言ってもWooferTenのスペースそのものが特定の政治的な指向性を帯びているというわけではないし、特段、政治的メッセージが明瞭な作品を作っているというわけでもない。新年の蚤の市をしてみたり、ペットボトルで作るガーデニング用品のワークショップをしたり、新年の書き初めをしていたりと案外普通なのだ。その理由を聞くと、「活化廳は、この街で仕事や生活を営む人たちとアーティストが一緒にコミュニティや関係性を造り出していくための色の無い容器みたいなものだから、どちらからというとオブジェよりもこの場所で生まれてくる関係そのものが作品だと思うよ」とLeeFungは答える。
WooferTenのホームページでは、このスペースの意図についてこう語っている。
「活化廳」是一個由十多位本地文化藝術工作者共同營運的藝術組織,期望以持續性的對話建立一個「藝術/社區」彼此活化的平台。置身於上海街,一個充滿本土特色卻又面對變遷的社區,「活化廳」期望試驗一種建立在生活關係的「社區/藝術」,並藉著不同主題的藝術計劃,引起人們對藝術/生活/社區/政治/文化的思考和討論,亦藉以打通社區豐富的人情脈絡,帶動彼此的參與、分享和發現,勾勒一小社區鄰里生活模式可能」
(グーグル日本語訳)
「活性化ホール」は約10名の文化芸術に従事者たちが共同運営する芸術組織で、「芸術/コミュニティ」の継続した対話を通じて、お互いに活性化していくためのプラットフォームを作り出すことを望んでいます。上海街を拠点とし、地域の特色を残しつつ、なお変遷を続けて行くこのコミュニティと向き合い、「活化廳」は生活関係の中で「コミュニティ/芸術」を作り出す実験や多種多様なテーマのアートプロジェクトによって、人々の芸術/生活/コミュニティ/政治/文化に対する思考と討論を引き起こし、それによってコミュニティ内の豊かな人々の情動によるつながりを生み出し、お互いに関わりあうことを通じ、小さなコミュニティの生活モデルを発見し、共有したいと望んでいます。
台湾のキュレータ、Alice Koが作ったWooferTenの活動についての短編ドキュメントはWooferTenの地域コミュニティとの普段の関わりや、香港の都市再開発と文化の問題についての語りを記録している。
WooferTenの活動の特色は、芸術を軸に据えつつも、芸術と社会の対話を促すための共通の土台(プラットフォーム)を作り出す役割を果たそうとしていることだ。普段は近隣のちょっとした問題や相談事も引き受ける町の公民館であり、同時に、香港が抱える様々な問題を議論するローカルな政治フォーラムでもある。そして日々の継続的な人々の繋がりや出会い、対話、そしてこの地域に残る文化や価値観を様々なメディア(プロジェクト、展覧会、壁新聞等々)を通して表現、伝達していく。油麻地で働く人たちの仕事にフォーカスしたトロフィを作り、それを手渡して行くというプロジェクト「多多獎.小小賞(Few few prize, Many many praise)」は、普段から当たり前のこととされている様々な都市労働の価値を再発見する試みであるが、ここではアートがトロフィーという姿をとることで、人々の普段の仕事への意識を促すメディアとしての役割を果たしていて、結果的に人々の焦点が「トロフィー(作品)」よりも「人」に移るよう意図されている。作品よりも人。
芸術が社会や政治的意識と切り離されたとき、そこには確かに美しいがそれ以上に人間の生の生々しさ、具体性、個別生、そして世界における様々な矛盾を捨象した空虚な抽象性を感じ取らずにはいられない。香港の今最も深刻な問題の一つである、新自由主義的都市開発は、この「抽象化」の具体的な様相でもある。人々の暮らしと生存は極めて不安定な競争主義的社会環境にさらされ、自己保存とカネを至上価値とした価値観の中で半永久的に競争し続けなければならない。それは社会的関係の構築ではなく、その崩壊を加速させる。結果的に生み出されるのは無関心と無責任という非-人間的態度の常態化した社会なき世界だ。
もし芸術が、個人の神秘的な創造のプロセスだけに限らず、人間の様々な価値の創出とその実践でもあるとすれば、美的•感性的情動の熱量を、資本主価値(カネ)とはことなる価値の創出や社会変革のイメージの生産、消えてゆく文化を守ることに費やすことは何ら不思議ではない。自らの創造性を「オブジェとしての作品を作る」ことよりも、「社会的諸関係の生産/再生産」に投入すること。そこで生み出された関係性そのものは目には見えないが、そこに生きる人々の間で変化し、生成し、共有されたものとして確かに「経験される」ものとなり、その継続が人々の行為と思考を変化させ、「生活」を形作り、ひいては「小さなコミュニティ」を新たに想像し、実現させていく力につながってゆく。WooferTenは、このように「社会/芸術」の関係のあり方を「生活」の中で作り出すための小さな社会実験の場だと言えるだろう。(つづく)
活化廳 (WooferTen) 01
油麻地は香港で最も人口密度の高い油尖旺区の中にある。東西はノーザンロードと東九龍ハイウェイに挟まれ、南北にはオースティンロードから旺角(モンコック)駅にまたがる200m×1kmの長方形の地区だ。ノーザンロードの東側、旺角にある女子街や深水埗(サムスイポー)電気街はいつも世界中の観光客でにぎわっているが、西側の油麻地は地元の人たちの集まる市場、機械工作の工具、調理器具の店の並ぶ一見地味で古くさい街のように見えてしまう。本土からの長距離バスの終点でもあるこの街には朝から夕方までひっきりなしに中国からの旅行客がやってきては両替所に列を作っている。その隣ではおばあさんが荷車を引いてボロボロの段ボールを集めて回っているし、四方をビルの外壁に囲まれた小さな公園では早朝からベンチに腰をかけぼうっと遠いまなざしをしている老人たちの姿がある。出勤途中の人々はせわしなく携帯電話を指で操作しながらその横を小走りで過ぎ去って行く。
50年代に建てられた古いショップハウスビルが寸分の隙間もなく立ち並び、壁から突き出た無数のネオン看板に文字には赤やピンクの人工色に彩られビルの谷間に浮かんでいる。街路という街路では小さな食堂の湯気が立ち上り、店の前にはこんがりと飴色に焼き上げられた鶏や鴨、赤色のチャーシューがつり下げられている。茶餐廰(チャー・チャンテン:中華と西洋のミックスした香港式朝食の店)の奥には白いテーブルとプラスチック製の椅子が並べられていて、通勤前の早餐(朝食)で、波羅包(ボーロー・バウ)や火腿蛋米粉(汁ビーフンのハムと目玉焼き)、鴛鴦茶(コーヒと紅茶を混ぜた飲み物)や港式奶茶(香港式ミルクティー、砂糖とエバミルクがたっぷり)をさっと平らげる人々の姿が見える。
路上には緑色をした大きな仏壇のような露店がずらりと並び、野菜や果物、乾物が店の前に積まれている。夕方になるとこの細い通りは大勢の買い物客の往来でにぎわう。橙色の夕日は、喉に染み付いたかのようなかけ声で客を呼び込む老齢の店主たちの顔に深い陰影を添える。道路に張り出した水色のバケツの中では、ナマズや淡水魚がクチをぱくぱくさせて買い物客を見上げている。客が一匹注文すると店員が慣れた手つきでえらに手をかけて魚を水槽からサッと引き上げまな板の上に乗せる。包丁の腹でビタンと頭をたたき、さっと真一文字に開いてはらわたを取り出し、ビニール袋にそのまな投げ込んで血の付いた手で渡す。中古携帯電話のショップでは、蛍光灯の白い光の下でどこから仕入れたのかわからない中古iphoneやテレホンカードを売っている。ショーケースの奥には売り子がいぶかしそうな目でこちらを見ている。夜にはビルの一階や裏通りには売春宿のピンク色の明かりが妖しく灯っている。木造2階建ての卸問屋が迷路のように連なっている九龍水果批發市場では、夜明け前から入れ墨をした裸の男たちが果物の段ボールを台車に載せつつせわしなく行き交っている。オールド香港の都市風景の中にあらゆる人々の暮らしが溶け込んでいる街、油麻地。噂のアートスペース、「活化庁(WooferTen)」はこの街の一角、上海街のビルの一階に構えている。(つづく)
香港のアトリエ (HongKong Atelier)
書家で料理人の友人Rolandのアトリエに行く。倉庫街にある巨大な倉庫ビルの13階。業務用のエレベータでのぼってゆく。使われなくなった倉庫ビルの一区画を何人かで借りて、共同でシェアしている。一人でアトリエを借りるよりも安いし、より広い空間が使える。作業のためだけに使う人もいるが、家族と同居が一般的な香港では、アトリエを持つというのは(他の作家や学生と共同ではあるが)自分のための空間を持つということと同義だ。皆、ベッドを持ちこんで住み込んでいる。夜は他の友人達がやってきて音楽をかけ、酒盛りを始める。香港のアーティストたちの暮らしと制作と共同生活は巨大な倉庫群の中で営まれている。